日本史

計画都市「京都」の歴史 広がる左京と衰退する右京

 京都は北から南に向かって上京区(かみぎょうく)、中京区(なかぎょうく)、下京区(しもぎょうく)という順になっていて、さらに東側は左京区(さきょうく)、西側は右京区(うきょうく)と分かれている。

 さらに北から順に一条、二条、三条、四条、五条、六条、七条、八条、九条、十条と地名がつけられていて、京都のどのあたりに自分がいるか、地名だけで場所がすぐにわかる。美しい左右対称の碁盤の目になっていて、典型的な計画都市といえる。この計画都市が作られたのは千年以上も前で、市内には同じくらい歴史のある建物が無数に存在している。

平城京からの遷都

 もともと日本の都は奈良の平城京だったが、貴族や仏教の影響が強い平城京を嫌がった桓武天皇は都を長岡京に移した。しかし洪水やら疫病やらが流行るようになり、これは怨霊の仕業だということで再び都を移すことにした。

 新たな土地は「四神相応」という縁起のよい土地を選ぶことにして、それにぴったりだったのが現在の京都だった。四神相応は東西南北に守護神となる神獣がいるという考えで、北は玄武(げんぶ)、南は朱雀(すざく)、東は青龍(せいりゅう)、西は白虎(びゃっこ)という神獣が存在すると考えられた。この考えでは、北に岩、東に川、南に海か湖、西に道があるのが縁起がいい。

 これに合致した土地が、現在の京都だった。桓武天皇は794年に京都盆地に都を移し、その地を平安京と名付けた。平安京の北には船岡山があり、東には鴨川、南には巨椋池(おぐらいけ)、西には山陰道があった。

 平安京のど真ん中には朱雀大路という名前の幅85メートルもある大通りが配置され、その北端の突き当たりには大内裏(皇居)が建てられた。朱雀大路の東西はシンメトリーになっていて、東側を左京、西側を右京と呼んだ。平安京のモデルは中国の都市で、左京を洛陽(らくよう)、右京を長安(ちょうあん)と呼んだりもした。

栄える左京、衰退する右京

 このような人工的な都市も、自然には勝てなかった。西側の右京は湿地帯に位置していたので水害や疫病に襲われることが多く、徐々に衰退していった。

 平安京の中心は東側の左京に移り、都市は北と東に向かって広がっていった。鴨川の東側も賑やかになる。有名な花街「祇園(ぎおん)」も鴨川より東にある。もはや初期の平安京とは違う形の都市になり、次第に京都と呼ばれるようになった。

 そんな京都も応仁の乱では上京が戦場になったため、焼け野原になってしまった。豊臣秀吉が復興を進め、京都の中心部を土塁で囲んだ。この土塁の内側を「洛中」、外側を「洛外」と呼び、京都人は洛中と洛外をとても重視する。この土塁は平安京とは異なり正方形のような美しい形はしていなかったので、どこからどこまでが洛中かは簡単には言い表せない。

 ちなみに「四神相応」でいう南側の湖である巨椋池は、現在は干拓されて農業地帯になっている。

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