日本史

中山道、川越街道、奥州街道から成り立つ埼玉の文化圏

埼玉県は横の連携が取れない県で、三つの主要道路を中心に文化圏が構成されている。

中山道とJR高崎線

一つ目は五街道の一つ、中山道。中山道は江戸の日本橋を出発して北上し、群馬、長野、岐阜、滋賀を通り、京都の三条大橋へ至る。

中山道の途中には旅人が休憩するための宿場町が整備されていて、板橋宿、蕨宿、浦和宿、大宮宿、上尾宿、桶川宿、鴻巣宿、熊谷宿、深谷宿、本庄宿という順番で群馬方面へと向かっていく。この並びはJR高崎線とほぼ同じルートで、現在の埼玉の中心地、さいたま市を通過して、北部地域の中心都市である熊谷を通る。

したがって、この地域の文化的なつながりは深く、荒川東岸のさいたま市、上尾市、桶川市、鴻巣市のあたりは同じ地域としてまとめられ、かつては足立郡と呼ばれていた。足立郡は南北に細長く、鴻巣はかなり北のほうにあるが「南部地域」に含められることも多い。ちなみに東京23区の足立区は、この足立郡から名前が採用されている。

川越街道と東武東上線

二つ目の道路は川越街道。川越街道は名前の通り江戸と川越をつなぐ道路で、板橋宿で中山道から分岐して上板橋、練馬、白子、膝折、大和田、大井、川越へと至る。あまり有名な地名はないが、白子は和光市、膝折は朝霞市、大和田は志木市、大井はふじみ野市に位置する。こちらは現在の東武東上線が近いところを走っている。

荒川西岸の川越街道を中心とした地域は「西部地域」に分類される。荒川を挟んで南部地域と西部地域に分かれているというわけで、明治初期には埼玉県は荒川から東側が「埼玉県」、西側が「入間県」だったことがある。このとき埼玉県の県庁所在地は岩槻、入間県の県庁所在地は川越に置かれていた。もっとも、この入間県は二年も経たないうちに再編されて消滅した。

奥州街道と東武伊勢崎線

三つ目の道路は奥州街道で、こちらも五街道のひとつ。宿場町は千住、草加、越谷、粕壁、杉戸、幸手、栗橋の順に置かれ、栃木県へと続いた。このルートは東武伊勢崎線とかなり被っていて。この地域はかつて「埼玉郡」と呼ばれ、「足立郡」の東側にやはり南北に伸びていた。ちなみに現在は「東部地域」とされる。

中山道、川越街道、奥州街道という三つの街道は、高崎線、東上線、伊勢崎線という鉄道路線に姿を変えて、やはり東京を中心に文化圏を構成し続けている。埼玉県の西部地域、南部地域、東部地域をつなぐのは道路なら国道16号線、鉄道なら武蔵野線、川越線、東武野田線があるが、どれも東京に向かわない路線なので他と比べるとあまり人気がない。

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