日本史

嘘・でたらめの代名詞「大本営発表」の変遷

 1937年に日中戦争が始まると、日本軍は「大本営」を設置した。

 本営とは総大将や指揮官がいる場所を指す言葉で、大本営は日本軍の最高司令部という位置づけだった。旧日本軍にはまだ空軍はなく、陸軍と海軍があったので、大本営も陸軍部と海軍部に分かれていた。

 当時、日本では急速にラジオが普及し、大本営の発表はラジオで流れるようになっていた。

正確さを重視した真珠湾攻撃

 1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾にある米軍基地を奇襲した。この攻撃は海軍のものだったので、発表は大本営海軍部が行った。この攻撃で日本海軍は戦艦3隻撃沈、3隻大破、航空機300機を破壊してふたつの飛行場を使用不能にした。

 帝国海軍は本八日未明ハワイ方面の米国艦隊並びに航空兵力に対し決死的大空襲を敢行せり。ハワイ空襲において現在までに判明せる戦果左の如し。戦艦2隻轟沈、戦艦4隻大破、大型巡洋艦約4隻大破、以上確実。他に敵飛行機多数を撃墜撃破せり、我が飛行機の損害は軽微なり。

 数日後、戦艦の撃沈数は2隻から3隻に修正された。このときの大本営発表はかなり正確で、事実だけを知らせていることがわかる。

陸軍の勇ましい発表

 12月19日、今度は日本陸軍が香港を攻撃した。当時の香港はイギリスが支配していた。

 帝国陸軍部隊は海軍部隊の緊密なる共同の下に敵の頑強なる抵抗を粉砕し、昨夜半敵の猛射を冒して香港島要塞の上陸作戦に成功し、目下着々戦果拡張中なり。将兵の士気極めて旺盛、意気天を衝く。

 続いてオランダ領東インド(現在のインドネシア)、パレンバン降下作戦の発表。

 強力なる帝国陸軍落下傘部隊は、蘭印最大の油田地たるパレンバンに対する奇襲降下に成功し、敵を撃破して飛行場その他の要地を占領確保するとともに更に戦果を拡張中なり。

 真珠湾攻撃の時よりも、だいぶ言葉を飾っている。言葉を飾るのが陸軍の慣習だったのかもしれない。

特殊潜航艇の発表

 翌年3月、大本営は真珠湾攻撃での特殊潜航艇について発表を行った。

 天佑神助をを確信せる特別攻撃隊は壮途につき、白昼強襲、或いは夜襲を決行、史上空前の壮挙を敢行、任務を完遂せるのち艇と運命をともにせり。

 アリゾナ型戦艦の轟沈は遠く港外に在りし友軍部隊よりも明瞭に認められ、真珠湾内に大爆発起こり、火焔天に冲し灼熱せる鉄片は空中高く飛散、しゆゆにして火焔消滅、これと同時に敵は航空部隊の攻撃と誤認せるものか、熾烈なる対空射撃を開始せるを確認せり。

 全員生死を超越して攻撃効果に専念し、帰還の如きは敢てその念頭に無かりしによるものと断ずるの外なし。かくの如く古今に絶する殉忠無比の攻撃精神は、実に帝国海軍の伝統を遺憾なく発揮せるものにして、今次大戦史劈頭の一大偉勲というべし。

 この自爆作戦で亡くなった9名は、軍神として祭り上げられ、映画にもなったという。特殊潜航艇は2人乗りで、作戦に赴いたのは10名だった。残りの1名は捕虜になっていたが、日本軍は敵の捕虜になることは不名誉なことだと考えていたので、最初からいなかったことになっている。

嘘が増えていく大本営発表

 やがて日本軍が負け始めると、大本営はあまり発表を行わなくなり、内容も嘘だらけになっていった。こちらはミッドウェー海戦のときの大本営発表。日本軍は空母を4隻失っていたが、だいぶ少なめに発表されている。

 帝国海軍部隊はアリューシャン列島の敵拠点ダッチハーバー並びに同列島一帯を急襲し、反復これを攻撃せり。一方、敵根拠地ミッドウェーに対し猛烈なる強襲を敢行すると共に、増援中の米国艦隊を捕捉猛攻を加え、敵海上及び航空兵力並びに重要軍事施設に甚大なる損害を与えたり。判明せる戦果左の如し。敵航空母艦エンタープライズ型1隻及びホーネット型1隻撃沈、我が方損害航空母艦1隻喪失、同1隻大破、巡洋艦1隻大破。

 そして有名な言葉「転進」「玉砕」が誕生する。「転進」が登場するのはガダルカナル島の戦いで、「玉砕」が登場するのはアッツ島の戦い。

 ニューギニア島のブナ付近に挺進せる部隊は、寡兵よく敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしが、その任務を終了せしにより、陣地を徹し、他に転進せしめられたり。同じくソロモン群島のガダルカナル島に作戦中の部隊は、優勢なる敵軍を同島の一角に圧迫し激戦敢闘、よく敵戦力を撃砕しつつありしが、その目的を達成せるにより、同島を撤し、他に転進せしめられたり。

 アッツ島守備部隊は極めて困難なる状況下に、寡兵よく優勢なる敵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し、皇軍の神髄を発揮せんと決意し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。その後通信途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざるものは、これに先立ちことごとく自決せり。

 特に「玉砕」という言葉は、国民に広く(皮肉として)浸透した。ただ、肝心の大本営はこの言葉はあまり使わず、単に「全員壮烈なる戦死を遂げた」と言うようになった。「転進」もそのまま「撤退」「撤収」と言ったという。

昭和天皇の皮肉

 昭和天皇は政治に口出ししないことを基本としていたが、あまりのいい加減な発表に皮肉を言ったとされる。

 サラトガ(航空母艦の名前)が沈んだのは、今度で確か4回目だったと思うが。

 昭和天皇の弟である高松宮親王は、ソロモン海戦の際の日記にこう書き記している。

 大本営発表の説明は実に『でたらめ』で、けしからぬ話なり。今度のようなのは実に甚だしく内外ともに日本の発表の信じられぬことを裏書することになる。まるで『ねつぞう』記事なり。

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