ヒトラーがソ連侵攻を検討すると、ドイツ陸軍でも具体的な計画が練られた。将校たちはナポレオンによるロシア遠征の事例を調べた。
マルクス案とオットー案
まずは第18軍参謀長のオットー・マルクス少将がソ連侵攻計画を提出した。軍を北方軍集団と南方軍集団の二つに分け、北方軍集団はモスクワを目指し、南方軍集団はキエフを経てハリコフに到達する、というものだった。最重要目標は、ソ連の都市モスクワである。モスクワはソ連の政治・経済の中心というだけでなく、ソ連国民にとっては古くからの首都であり、これを占領できれば敵の志気をくじくことができる。
しかし参謀総長フランツ・ハルダー上級大将はこれとは別の「オットー案」をヒトラーに提出した。
オットー案では軍を北方軍集団、中央軍集団、南方軍集団の三つに分ける。北方軍集団はレニングラードを目指し、中央軍集団はモスクワを目指し、南方軍集団はハリコフ方面を目指すというもの。目標はモスクワの占領ではなく、ソ連軍を壊滅させることにあった。モスクワを攻撃すると見せかけて敵をおびき出し、包囲殲滅するという作戦である。
ヒトラーの戦略
ヒトラーは「オットー案」を大筋で承認しつつ、「レニングラードとウクライナの占領」を第一目標とするよう命じた。
レニングラードはバルト海に面した都市で、ソ連艦隊の拠点になっていた。ここを占領すればバルト海の支配権を確立できる。バルト海を支配できれば、スウェーデンやフィンランドからの鉱物資源を安全にドイツに運ぶことができた。ウクライナは農業資源や鉱物資源の豊富な地域だった。
こうしてソ連侵攻の目標は曖昧になった。まず前方の敵を殲滅した上で、北方軍集団はレニングラード占領、南方軍集団はウクライナ占領を目指すことになる。残る中央軍集団の目標は、はっきりしていなかった。
中央軍集団を担当することになったボック元帥は、曖昧な命令に困惑したという。中央軍集団は敵を殲滅した後にモスクワを目指すのか、それともレニングラードを目指して北方軍集団を援護するのか、ウクライナを目指して南方軍集団を援護するのか。
ドイツ軍の主力となる戦車部隊は、その半分が中央軍集団に配置された。最新の三号戦車はグデーリアン上級大将が指揮する第二装甲集団に集中配備された。
独ソ戦の開始
1941年6月22日早朝、ドイツ軍がソ連領に侵入を開始した。
奇襲攻撃は成功し、ソ連軍の通信網を分断、前線近くの航空機を離陸する前に破壊した。ポーランド国境近くにあるブレスト=リトフスク要塞は、猛爆撃を受けて一週間で陥落した。
中央軍集団と対峙するソ連軍西部方面軍には、新型のT-34戦車やKV-1戦車が配備されていたものの、操作を誤って壊してしまったり、急降下爆撃を受けたりして活用できなかった。また航空戦力も数はドイツ軍を上回っていたが、大混乱に陥ったため満足な反撃ができなかった。ドイツの侵攻は予想外だったようで、敗報の連続にスターリンも絶句していたという。
こうしてソ連軍はあっという間に壊滅し、戦車や車両を放棄して逃げ出した。司令官であるパウロフ上級大将はモスクワへ送られ、敗戦の責任を取らされて射殺された。
北、中央、南の三方向からの進撃
レープ将軍の指揮する北方軍集団はレニングラードへ向かった。北方軍集団はバルト三国を突破し、目標だったレニングラードを包囲したが占領することはできなかった。さらに主力部隊はモスクワ攻略のため、中央軍集団に引き抜かれてしまった。
ボック将軍の指揮する中央軍集団はミンスク、スモレンスクを占領してモスクワに迫ったが、途中で南方軍集団のキエフ攻略を支援したため、到達に遅れが生じた。結局モスクワを攻略することはできなかった。
ルントシュテット将軍の指揮する南方軍集団はソ連軍の主力部隊と衝突することになり、前進が遅れた。さらにルントシュテット将軍がロストフでいったん後退すると、ヒトラーに解任されてしまった。
ソ連の抵抗「大祖国戦争」
スターリンはラジオで民衆に徹底抗戦を呼びかけ、独ソ戦を「大祖国戦争」と名付けた。かつてナポレオンの侵攻を撃退した「祖国戦争」になぞらえたのだった。「祖国戦争」同様に焦土作戦を命じ、退却の際にはドイツ軍に物資が渡らないよう、すべてを焼き払った。
9月8日にレニングラードが包囲された。19日にキエフが陥落、10月2日には首都モスクワが攻撃を受けた。スターリンはモスクワにとどまり、指揮を執った。ヒトラーはモスクワ陥落を宣言したが、スターリンは軍事パレードを行ってモスクワの健在をアピールした。ナポレオン戦争を引き合いに出して、国民を鼓舞した。
予備役530万人を動員し、労働者や企業をウラル山脈やシベリアに移動させて戦争継続体制を整えた。ドイツ軍の過酷な占領政策も相まって、ソ連国民の抵抗が弱まることはなかった。
イギリス首相チャーチルは、ソ連に援助を提案した。継続的に北極海のムルマンスクへ物資を届けた。アメリカもソ連に武器貸与法を適用し、アルミニウム、戦車、航空機の提供を決めた。こうして共通の敵を前にして、イギリス・アメリカ・ソ連が手を結んだのだった。