1928年、フランスの提案によりパリで不戦条約が締結された。これは相互の戦争を禁じるという条約で、フランスをはじめアメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリアといった列強諸国が参加した。
この条約は世界平和を実現するために提案されたわけではなく、第一次世界大戦の結果ドイツが憎くて仕方のないフランスが、アメリカとの軍事同盟を目指して動いていたものだった。
ドイツが未来永劫を復活することのないように
第一次世界大戦で多数の犠牲を出したフランスは、ドイツのことをとにかく恨んでいた。ドイツが二度と復活することがないように、莫大な賠償金を要求した。ドイツにはヴェルサイユ条約で賠償金の支払いが定められていたが、その金額は決まっていなかった。
ロンドン会議でフランスは1,100億金マルクを要求した。ドイツの国家予算は80億金マルクくらいだったので、とうてい払いきれない金額だった。そして、この金額はフランスだけに対する金額だから、他の国の分も含めれば非現実的な数字だった。
これにはイギリスが反対した。ドイツを過剰に追い詰めれば、新たな戦争が起こりかねないと主張した。しかしフランスは譲らず、結局総額で1,320億金マルクに決まった。毎年60億金マルクずつ返済することになった。
ルール地方を占領
賠償金が払えないドイツは、支払いの猶予を申し出た。イギリスはそれを認めようとしたが、フランスはまったく譲らなかった。賠償金が払えないのならばと、ドイツの主要工業地帯であるルール地方をベルギーとともに占領してしまった。イギリスはフランスに非難声明を発した。
ルール地方のドイツ人がストライキやサボタージュでこれに対抗すると、フランスは投獄・処刑をちらつかせて脅した。しかし、結局この出兵はフランスにも負担になるだけで、効果がほとんどなく撤退することになった。
結局、ドイツが毎年払う賠償金の金額は大きく減らされ、ドイツの経済復興を優先されるようになった。フランスは怒り心頭だった。
アメリカとの同盟を求めて
フランスはチェコスロバキア、ポーランドと相互援助条約を結んでドイツを包囲し、イギリスとイタリアにドイツがラインラントに進駐しないことを保証させた。そして最も望んでいたのは、軍事大国アメリカの保証だった。
しかしアメリカは孤立主義政策をとっていて、国際連盟にすら加盟していなかった。そこでフランスはアメリカに「不戦条約」の締結をもちかけた。アメリカはこれを多国間条約にすることを提案し、パリ不戦条約が結ばれることになった。
パリ不戦条約には列強をはじめ多くの国が参加したものの、違反した場合の罰則はなく、また自衛戦争は認められていた。各国は自衛戦争の範囲を自由に解釈し、たとえばアメリカは「侵略戦争は禁じているが防衛戦争は認められている。国益を守るためならば外国に軍を派遣しても防衛戦争である」と解釈していたし、日本は満州事変が起きたときに満州「事変」は戦争ではないから、パリ不戦条約には反していないと主張した。