第一次世界大戦が起きたとき、チェコスロバキアはオーストリア帝国の支配下にあった。そのためロシア帝国と戦うことになったが、チェコスロバキア人はロシア人と同じスラブ民族だったので、戦わずに投降する兵士も多かった。投降した兵士たちはチェコスロバキア軍団としてロシア軍に加わったが、その数は数万人にも上った。
ロシア革命が起きると、彼らは革命軍と戦いながら東へと移動していき、ウラジオストクに留まった。このときイギリスと同盟関係にあった日本はシベリアに出兵し、チェコスロバキア軍団の救出に向かっている。この働きはアメリカ、イギリス、フランスから高く評価され、チェコスロバキアはオーストリアから独立を果たした。
ズデーテン問題
チェコスロバキアはドイツと隣接していて、特にドイツに近いズデーテン地方には多くのドイツ人が住んでいた。ヒトラーはこの地域の割譲を迫った。イギリスはドイツの要求を受け入れることを決定し、イギリスの支援を得たいチェコスロバキア政府はこれに従った。こうしてチェコスロバキアが領土の一部を失うことで、ズデーテン問題は解決した。イギリス首相チェンバレンは、「ズデーテン地方がドイツ領になったことで、ヨーロッパの平和が守られた」と宣言した。
チェンバレンの宣言から半年後、チェコスロバキアは全土をドイツに占領された。領土はチェコとスロバキアに分割され、チェコはドイツの保護領に、スロバキアはドイツの傀儡政権に支配されることになった。チェコでは政党活動と高等教育が停止され、多くの住民はイギリスへ逃れて軍に志願した。
リディチェの悲劇
1941年、保護領内のレジスタンス掃討作戦を行っていたドイツ軍司令官ハイドリヒが暗殺された。犯人は逃走したが、リディチェ村に潜伏しているという噂が流れた。そこでドイツ軍はリディチェ村の住民500人全員を集め、その場で男性を銃殺刑に処し、女性と子供は強制収容所へと送った。
しかし暗殺犯は村にはおらず、プラハの教会に潜伏していた。彼らは後にドイツ軍に包囲され、銃撃戦の末に射殺された。
プラハ解放
1945年3月、チェコスロバキア全土はソ連軍により解放された。チェコスロバキア亡命政府は、ズデーテン問題でイギリスに見捨てられたことを恨んでいたので、ソ連による解放に喜んだ。チェコスロバキアは国土を取り戻し、ズデーテン地方も返還された。ズデーテン地方に住んでいたドイツ人は、追放された。
しかしチェコスロバキアはソ連の支配下に入り、領土の9パーセント、人口の20パーセントを奪われてしまった。ソ連の支配下に入ったことからアメリカの支援を受けることもでなかった。1968年には「プラハの春」事件まで起きることになる。