日本史

沖縄戦 戦艦大和の陸上砲台化作戦

 沖縄には1944年3月に、日本陸軍の第32軍が配置された。第32軍は首里に本拠地を置き、沖縄本島、奄美群島、宮古列島、八重山列島などを管轄し、アメリカ軍の上陸に備えた。第32軍の兵力は10万人ほどだった。

戦艦大和の出撃

 1945年3月、アメリカ軍は沖縄本島より西にある慶良間諸島に上陸した。この地に大艦隊を停泊させ、沖縄本島上陸の拠点とする目的だった。日本軍は慶良間諸島を狙われることは予想しておらず、上陸はあっさりと成功した。

 拠点を確保したアメリカ軍は、爆撃機3,000機による爆撃、10隻の戦艦による艦砲射撃を行い、あらゆる障害物を排除してから嘉手納飛行場の西側に上陸した。上陸にあたり日本軍の抵抗はほとんど見られず、嘉手納飛行場と読谷飛行場を占領した。

 アメリカ軍の上陸を確認した日本軍は、大規模な攻撃計画を立てた。日本本土から戦艦大和を出撃させ、読谷または嘉手納の砂浜に乗り上げて陸上砲台として、アメリカ軍を粉砕しようというのである。戦艦大和はアメリカ軍上陸から5日後、軽巡洋艦と駆逐艦を引き連れて出撃した。戦艦大和は出撃から数時間後には敵に発見され、翌日に猛攻を受けて沈没した。

宜野湾の攻防戦

 第32軍は首里まで4kmの宜野湾、嘉数陣地でアメリカ軍と攻防を繰り広げていた。第32軍はこの地に強力な陣地を構築して、敵の攻撃に備えていた。アメリカ軍は砲撃と爆撃を繰り返して、戦車と新兵器の火炎放射器を投入して進撃しようとした。しかし戦車22両が日本軍の速射砲や高射砲に撃ち抜かれ、攻撃は失敗した。

 やがて後方の陣地を失った日本軍は、嘉数陣地から退却した。用意していた陣地を失い追い詰められた第32軍は、総攻撃に打って出て大きな犠牲を出した。台湾、九州からは神風特別攻撃隊が出撃し、駆逐艦3隻を撃沈した。

首里放棄

 5月20日、第32軍は首里を放棄し、雨天に合わせて南下を始めた。追撃するアメリカ軍に対して大砲を撃ち込みつつ後退し、おおよそ2万人の兵力を失った。

 沖縄の南端に近い、国吉の丘陵地帯でアメリカ軍は21両の戦車を失った。また6月18日には指揮官のバックナー中将が砲撃を受けて戦死し、首里の戦い以降に8,000人以上の死傷者を出した。6月25日、大本営は沖縄における組織的な戦闘が終わったことを発表した。

-日本史