第一次世界大戦ではベルギーやオランダがドイツ軍により占領された。オランダも総動員体制をとり、隣国ベルギーからの難民を多数受け入れた。ドイツにはオランダまで攻撃する余裕はなく、結局オランダは攻撃されずに済んだ。
戦後、オランダは他国同様に世界恐慌に巻き込まれ、一時ファイズム勢力が台頭する。しかし当時オランダではコレイン首相が絶大な支持を集めていて、ファシズム勢力が支持を広げることはなかった。コレイン首相は地戦争で手柄を立て、軍制改革に手腕を発揮した後、石油会社の取締役になった男だった。叩き上げの力強いイメージを持つコレインに、国民は強い信頼を置いていた。コレインは読書家であり、ナチスの思想もよく研究していた。彼は第二次世界大戦勃発の直前の1939年8月に首相を退いた。
オランダ降伏と占領下のユダヤ人政策
1940年5月10日、ドイツ軍がオランダに侵攻を開始した。オランダ軍は抵抗を試みたが、主要都市ロッテルダムが猛爆撃を受けて壊滅したのを見て、抵抗するのを止めた。政府とウィルヘルミナ女王一家はイギリスに亡命し、5月15日に降伏した。
オランダを占領したドイツは、すぐさまユダヤ人を迫害することはなかったが、少しずつ政策を進めていった。ダヤ人の公務員を解任し、当局への届け出、身分証にユダヤ人を示すマークを入れることをひとつひとつ義務づけていった。最終的にユダヤ人は胸にマークを入れなければならなくなり、ドイツへ「労働」のために連れ去られていった。ユダヤ人を匿ったオランダ人は、厳罰に処された。
ドイツは戦局が悪化してくると、ユダヤ人だけでなくオランダ人の強制動員を始めた。次第に市民は反発を強め、国内ではレジスタンス活動が活発化した。ユダヤ人を助けるため、戸籍登記所の襲撃事件が各地で起こった。
ノルマンディーに上陸した連合軍はフランスとベルギーを解放したが、ライン川が障壁となってオランダへの進軍は遅れた。イギリスのモントゴメリー将軍はマーケット・ガーデン作戦でドイツ軍の防衛線を突破し、オランダを解放する作戦を立てた。ロンドンのオランダ亡命政府はラジオを通じて国民に鉄道ストライキを呼びかけた。しかし作戦は失敗に終わり、ストライキも短期間で終息した。
ドイツ軍はオランダ市民への報復として水上交通を禁止した。こうして1944年の冬には食料と燃料の供給が途絶え、さらに寒波が重なった。「飢餓の冬」と呼ばれるこの数か月でオランダ人2万人が命を落とすことになった。暖を取るために棺桶を燃やしたため、埋葬もできずに教会には死体が置かれたままになっているような有様だったという。連合軍はオランダ市民を救うため、上空から食料を投下した。
連合軍がライン川の渡河に成功したのは1945年3月で、ドイツが降伏文書に署名したのは5月5日のことだった。その3日後、首都アムステルダムにカナダ軍が入場した。オランダでは5月5日が解放記念日として祝日になっている。
インドネシア独立戦争
オランダ本国では戦争が終わったものの、東アジアでは未だ戦争が続いていた。オランダは現在のインドネシアを植民地にしており、当時は「オランダ領東インド」と呼ばれていた。
1945年8月17日、日本の降伏から二日後、スカルノがインドネシアの独立を宣言した。インドネシア国内は独立派と旧体制派の内戦状態となり、到着したイギリス軍と連合国の指示を受けた残留日本軍が治安維持に当たった。
オランダ軍は1946年3月にインドネシアに到着した。オランダ政府はスカルノを日本軍の傀儡政権と見なし、親オランダ勢力をまとめてオランダ女王を首長とするオランダ=インドネシア連合を樹立しようとした。オランダの収入の一割以上はインドネシアからもたらされていた。オランダは翌年に10万人、翌々年には14万人の兵力を送り込み、スカルノを逮捕した。独立勢力は臨時政府を立ててゲリラ戦で抵抗した。
アメリカは植民地支配が続くインドネシアの共産化を恐れた。そこでオランダに圧力をかけて軍事行動を中止させた。オランダはアメリカから多額の支援を受けていた。1949年12月27日、オランダは東インド植民地を放棄し、インドネシア共和国の独立を承認した。こうして400年に及ぶ東インド植民地の歴史は幕を閉じた。