日本史

サイパン島の戦い マッピ岬はバンザイ・クリフへ

 第二次世界大戦時、サイパン島には日本人が3万人、現地人が4,000人ほど暮らしていた。アメリカ軍の攻撃が迫ってくると、日本政府は彼らを本土へ避難させようとした。しかし輸送船はアメリカ軍の潜水艦に撃沈されてしまい、移送することはできなかった。

 サイパン島防衛の任務は第34師団に与えられた。1944年5月には1万人がサイパン島に上陸し、東条英機首相は「これでサイパン島は難攻不落になった」と言ったという。しかし後続として予定されていた部隊を乗せた輸送船は、アメリカ軍の潜水艦により撃沈されてしまった。

サイパン島上陸とマリアナ沖海戦

 アメリカ軍は1944年6月15日にサイパン島に上陸した。あらかじめ爆撃と艦砲射撃を十分に行い、海兵隊が上陸を開始した。日本軍の攻撃により水陸両用車が30両破壊されたが、初日に2万人が上陸を果たした。日本軍の夜襲に対して、照明弾を次々と打ち上げて撃退した。

 サイパン島にはマリアナ諸島、トラック諸島、パラオ諸島の防衛を担う第31軍の司令部が置かれていた。司令官の小畑英良(こばたひでよし)中将はこのときサイパン島を離れていた。小畑中将はテニアン島とグアム島から、サイパン島に向けて増援部隊を送った。しかしテニアン島の部隊は敵の駆逐艦に妨害されて到着できず、グアム島からの増援は中止された。

 日本軍はサイパン島を奪還するため、空母機動部隊を出撃させることにした。サイパン島上陸を支援しているアメリカ艦隊を撃滅し、増援部隊を同島に突入させる作戦だった。この作戦は失敗に終わり、日本軍は正規空母3隻と航空機の大部分を失った(マリアナ沖海戦)。大本営はサイパン島奪還をあきらめた。

日本軍の抵抗

 サイパン島の守備隊は大本営発表を聞いて、日本艦隊が勝利したと思っていた。日本軍守備隊はサイパン島中央のタポチョ山に集結し、敵の攻撃を防いだ。アメリカ軍はほとんど進軍することができず、この地を「死の谷」と呼んだという。3日間の攻撃の末、アメリカ軍はタポチョ山を攻略。さらにサイパンの首都ガラパンを5日で陥落させた。

 7月5日、かつて日本軍機動部隊を指揮していた南雲忠一中将は、残った兵士に訓示を印刷して配布した。

サイパン島の皇軍将兵に告ぐ

米軍侵攻企図してよりここに二旬余、全在島の皇軍陸海軍の将兵および軍属はよく協力一致、善戦敢闘、随所に皇軍の面目を発揮し、不可の重圧を完遂せんことを期せり。然るに天の時を得ず地の利を占むるを能わず人の和をもって今日に及びたるも、今や戦うに資材なく攻むるに砲類ことごとく破壊し、戦友相次いで倒る。無念七生報国を誓うに、しかも暴逆なる侵攻依然たり。サイパンの一角を占有するといえども熾烈なる砲撃下に散華するに過ぎず。今や止まるも死、進むも死、生死すべからくその時を得て帝国男児の真骨頂あり。今米軍に一撃を加え、太平洋の防波堤としてサイパン島に骨を埋めんとす。戦陣訓に曰く「生きて虜囚の辱めを受けず」。勇躍全力を尽くして従容として悠久の大義に生きる悦びとすべし。ここに将兵とともに聖寿の無窮、皇国の弥栄を祈念すべく敵を求めて発進す。続け

 南雲中将は翌日に自決した。大本営からは司令部に対し、総攻撃ではなく持久戦を行うよう指示が届いた。

 兵士や一部の民間人は銃剣やナイフ、竹槍、棍棒を手にして最後の総突撃を敢行した。彼らは「天皇陛下万歳!」と叫んで死を顧みずに突撃していった。その姿にアメリカ兵は恐怖を覚えたという。7月9日、サイパン島攻略司令官のターナー中将がサイパン島占領を宣言した。

 残った民間人およそ1万人はアメリカ軍の呼びかけに応じず、最北のマッピ岬の崖から海に身を投げていった。海岸は死体で埋め尽くされ、彼らが「大日本帝国万歳」「天皇陛下万歳」と叫びながら飛び降りたことから、マッピ岬は「バンザイ・クリフ」という名前になった。なお、マッピ山の北側の崖は「スーサイド・クリフ」と呼ぶ。今はどちらも観光地となっている。

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