西洋史

第二次世界大戦とルクセンブルク 市民の抵抗が「国民連帯の記念日」へ

 ルクセンブルクはドイツ、フランス、ベルギーの間にあるとても小さな国。歴史上、ドイツに属したり、ベルギーに属したりしながら、緩衝地帯の非武装中立国として独立を認められた。

 1939年にルクセンブルクは独立百周年を祝った。奇しくも、第二次世界大戦が始まった年のことだった。ルクセンブルクの正式名は「ルクセンブルク大公国」で、立憲君主制ながらシャルロット女大公が元首として内閣と協力して政治を行っていた。

開戦と亡命

 1940年5月10日にドイツ軍が国境を突破してくると、大公一家と政府は間一髪でフランスに逃れた。ドイツ軍の侵攻はある程度予想されていたものの、非武装中立国であるルクセンブルクには何の対策もとれず、国土も小さいため国民に亡命を知らせる時間もなかった。残された国民は何もできず、一部はフランス軍に従ってフランスへと避難した。

 国民はフランスがドイツ軍を撃退してくれることを願った。しかし、まもなくフランスは降伏してしまい、シャルロット女大公は中立国ポルトガルに亡命した。

 ルクセンブルクの仮政府はとりあえず大公を帰国させたいと考え、ドイツに許可を求めたが、返事はなかった。

ドイツの占領政策

 ドイツはルクセンブルクを独立状態にしておくつもりはなく、公用語をドイツ語に定め、街の名前や大通りの名前、新聞、雑誌、看板すべてがドイツ語に改められた。学校でフランス語を教えることもなくなった。ついには、個人の指名までドイツ語に変更された。

 政党、憲法、国会も廃止された。ドイツの管区指揮官は、ルクセンブルク国家の消滅を宣言した。「ルクセンブルク市民は祖国ドイツへの復帰を希望している」として、ドイツ国民運動への参加を強制し、参加しない公務員を解雇、店舗や工場は閉鎖されていった。

 これに対し、ルクセンブルクの市民は独立百周年のバッジをつけることで抵抗の意志を示した。これはヒトラー・ユーゲント(ナチス少年隊)の怒りを買い、暴力事件がたびたび発生した。

 1941年、ドイツは国勢調査で「模範解答」とされる用紙を配布、回答しなかった者、記入を「間違えた」者を処罰することを予告し、ドイツに逆らった若者が強制収容所に送られたと報道した。

 しかし市民の反発が激しくなったため、ドイツ管区指揮官は調査票の回収とルクセンブルク併合をあきらめた。若者を徴兵し、活動家の処刑を行い。数千人が強制収容所へと送られた。

中立政策の放棄

 ドイツの占領政策を見てルクセンブルクの大公と亡命政府は、中立政策を放棄することに決めた。

 シャルロット女大公はイギリスに渡り、BBC放送で初めて国民に向けてルクセンブルク語で演説を行った。また、亡命政府はロンドンとカナダのモントリオールでルクセンブルクの窮状を訴えた。呼びかけは毎週行われるようになり、やがて毎日放送されるようになった。

 ルクセンブルク国民からなる150名の「ルクセンブルク中隊」が組織され、ベルギー第一旅団に加わることになった。ルクセンブルクはベルギー、オランダの亡命政府とベネルクス協定を結んで結束した。

 1944年9月にルクセンブルクはアメリカ軍によって解放されたが、国土はドイツ軍の反撃による「アルデンヌの戦い」の戦場になり、建物の三分の一が破壊されてしまった。

 戦後、ルクセンブルクは非武装中立規定を捨てて徴兵制を導入した。戦時中に国民がドイツ支配に抵抗を示し、調査票の回収を断念させた10月10日は「国民連帯の記念日」になり、毎年盛大に祝われている。

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