西洋史

バトル・オブ・ブリテン 制空権を巡る空戦

 ドイツ軍の奇襲攻撃を受けたイギリス・フランス連合軍はフランス北岸の都市ダンケルクに追い詰められた。イギリスは国内の船をかき集めて救出作戦を実施し、35万人がイギリス本土に逃れることができた。しかし、このときに多くの大砲や武器を放棄せざるを得なかった。

 まもなく、フランスが降伏した。当時ソ連はドイツと不可侵条約を結んでいたので、ヨーロッパでドイツと対立する国はイギリスだけになった。

イギリス本土上陸作戦と備え

 1940年6月4日、イギリス首相チャーチルは演説を行い、「イギリスは仮に本土を占領されたとしても、決して降伏することはない」と宣言した。

 仕方なくドイツはイギリス本土上陸作戦「あしか作戦」の計画を練った。上陸戦のため、水に浮いたり潜水したりできる戦車の開発を急いだ。しかし輸送船の不足は明らかで、海軍力ではイギリス海軍の方が圧倒的に優勢だった。

 イギリスはドイツ軍の上陸に備え、各地の退役軍人や兵役を免除された市民、高齢者を集めて国防市民軍(ホームガード)を組織させた。ダンケルクから撤退した部隊は装備を失っていたため、第一次世界大戦で使っていた兵器を倉庫から引っ張り出して装備することになった。

バトル・オブ・ブリテン

 上陸作戦を成功させるには、まずイギリスの制空権を握る必要があった。そこでドイツ空軍は大規模な空襲作戦を行うことにした。ここに始まるドイツ空軍とイギリス空軍の制空権を巡る争いを「バトル・オブ・ブリテン」と呼ぶ。

 8月12日、ドイツ空軍はイギリス南部の都市ポーツマスを空襲すると見せかけ、ベントナーのレーダー基地を爆撃した。レーダーは破壊され、3週間使用不能になった。イギリス空軍の反撃でJu88爆撃機10機が撃墜された。

 イギリス本土への砲撃も開始された。フランスのカレー地区から、ドーバー海峡を挟んでの砲撃だった。イギリス側も対抗して旧式の列車砲を持ってきて撃ち返した。ドーバー海峡は双方の砲弾が飛び交うことになった。

ロンドン爆撃

 当初、ドイツ空軍はロンドンへの爆撃を控えていた。ロンドンを爆撃してしまえばイギリスの市民感情の悪化は避けられず、和睦への道を完全に閉ざすことになる。だが、一部の爆撃機がロンドンを誤爆した。イギリスは報復としてドイツの首都ベルリンを夜間爆撃した。激怒したヒトラーはロンドンへの爆撃を許可し、9月7日には数百機の爆撃機がロンドンを襲った。

 こうしてロンドンは毎日空襲を受けるようになった。しかし攻撃目標が空軍飛行場から市街地に変わったため、イギリス空軍の被害は抑えられるようになった。

 9月15日、ドイツ空軍は1000機以上の大編隊でロンドン爆撃を敢行した。イギリス空軍は事前にレーダーで動きを察知していて、戦闘機300機で迎え撃った。この戦いでドイツ空軍は航空機56機を失い、イギリス空軍は26機を失った。2日後、ヒトラーはイギリス本土上陸作戦「あしか作戦」を無期限延期した。

 以降もドイツ空軍は夜間爆撃を中心にロンドン空襲を続けたが、ついにイギリスから制空権を奪うことはできなかった。

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