B-29長距離爆撃機が完成したことで、アメリカ軍は日本本土に爆撃することが可能になった。B-29の生産は開発元のボーイング社だけでなく、ゼネラル・モーターズ社、ノースアメリカン社、ベル社でも行われた。
マッターホーン作戦
1943年8月にアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が会談し、ノルマンディー上陸作戦と日本本土の空爆が行われることに決まった。
日本本土空爆はB-29をインドのカルカッタ(現コルカタ)に配備し、中国の前進基地を利用して日本本土を爆撃しようというもので、作戦名はマッターホーン作戦となった。前進基地には日本軍からの攻撃を受ける可能性が低い、中国の都市成都が選ばれた。成都からでは九州までしか爆撃できないが、実行する効果は十分にあると見込まれた。
カイロ会談でチャーチルと蒋介石の同意を得て、アメリカ陸軍に第二十爆撃兵団が創設された。
B-29には新型の焼夷弾を搭載することになった。ひとつの爆弾に38発のM69焼夷弾が詰め込んであり、航空機から投下すると途中でばらまかれる仕組みになっていた。M69焼夷弾の中身はナパーム(油脂ガソリン)で、着地するとTNT爆薬が爆発し、ナパームに引火、その勢いで30メートル四方が炎に包まれるというものだった。当時、東京の建物の9割が木造だった。
1944年6月16日、成都を離陸したB-29爆撃機75機が北九州に初めて爆撃を行った。目標は八幡製鉄所だった。爆撃を察知した日本軍は、35機の夜間戦闘機「屠龍(とりゅう)」により迎え撃った。B-29は何機か撃ち落とされ、おまけに夜間だったため八幡製鉄所の被害は軽微だったが、ドーリットル隊以来となる日本本土爆撃に、アメリカ国内は沸き立った。これ以降、B-29の編隊は長崎、佐世保、諫早などを襲い、八幡製鉄所、三菱化成、戸畑製鉄などを爆撃していった。
精密爆撃から絨毯爆撃へ
成都からの空襲は九州が限界だったため、アメリカ軍は東京や大阪に爆撃可能な飛行場を求めた。そして目をつけたのが、太平洋のマリアナ諸島だった。
1944年7月にマリアナ諸島のサイパン島、グアム島、テニアン島を占領すると、すぐに飛行場を建設してB-29を配備していった。最初の攻撃目標は、東京都武蔵野市にある中島飛行機の武蔵製作所だった。さらに品川、杉並、神田の飛行機生産工場が狙われたが、あまり成果が上がらなかった。
アメリカ軍は爆撃の司令官をウルフ准将からルメイ少将に交代させた。ルメイ少将は軍事施設への精密爆撃をとりやめ、住宅を片っ端から焼き尽くす「絨毯爆撃」に切り替えた。こうして神田、四谷、赤坂は焼き払われた。以降、東京には100回以上の空爆が行われた。
最大の死傷者を出したのは1945年3月10日の東京大空襲だった。市街全体がよく燃えるように風の強い日が選ばれ、どこに爆弾を落とせば火が燃え広がるか、過去の東京の火事などのデータを詳細に分析した。当時、東京で最も人口が多かったのは浅草だった。こうしてB-29爆撃機325機が東京の下町を襲い、墨田区、江東区、台東区は火の海になった。丸の内の東京都庁も焼け落ちた。8万人が死亡し、100万人が住む家を失った。隅田川や荒川放水路はガソリンで水面が燃え上がっていたとされる。