西洋史

シュリーフェン・プランと第一次世界大戦

 西はフランス、東はロシアという大国に挟まれたドイツにとって、両国を敵に回すことはきわめて危険だった。もしも両国と同時に戦争になれば、東西両方に兵力を配置しなければならない。

 兵法では「戦力を集中させること」が何よりも大切で、東西にバランス良く兵力を分散させていたのでは戦争には勝てない。相手が大国であれば、なおさらである。

 ドイツの宰相ビスマルクはロシアと手を組み、西の大国フランスを孤立させるよう努力していた。しかし新たに皇帝となったヴィルヘルム二世は反ロシア路線を打ち出し、代わりにオーストリアやイギリスと協力する姿勢を見せた。するとフランスとロシアは接近し、露仏協商を締結してドイツに対抗するようになった。

シュリーフェン・プランと第一次世界大戦

 こうした状況で参謀総長シュリーフェンは、フランスとロシア両国と戦うための計画を立案した。

東部戦線(ロシア)は最低限の兵力に抑え、西部戦線(フランス)に兵力を集中させてフランスを短期間で降伏させる。しかる後にロシアと戦う。万が一ロシアが攻め込んできて領土を失ってもやむを得ない。後で取り返せばよい。

 東部戦線の兵力は12.5%、西部戦線の兵力は87.5%とした。この計画はシュリーフェン・プランと呼ばれ、ドイツがとる戦略の基本方針となった。

 最初にシュリーフェン・プランが実行されることになるのは、この直後の第一次世界大戦だった。シュリーフェンは既に亡くなっており、その後を継いだモルトケによって計画が修正された。

 モルトケは東部戦線の兵力を30%に引き上げ、西部戦線の兵力は70%とした。さらに西部戦線の中でも主力となるのは右翼を担う部隊だったが、モルトケは右翼の部隊の一部を左翼側に補充してしまった。

 こうして当初のシュリーフェン・プランとは大きく異なる形で第一次世界大戦が始まった。ドイツ軍はフランス軍を破り、パリに迫った。しかし主力部隊が減らされていたドイツ軍は部隊と部隊の隙間を狙われてあやうく包囲されそうになり、一気にエーヌ側まで退却。作戦は失敗した。

 第二次世界大戦でもシュリーフェン・プランの大まかな考え方は同じだったが、マンシュタインの提案でアルデンヌの森に戦力を集中させることになった。そこはフランス軍が最も兵力を薄くしていた場所だった。

 

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