バルト海に面するリトアニア、ラトビア、エストニアの三国は、第一次世界大戦中に起きたロシア革命で独立した。これらバルト三国はソ連とドイツの間に位置することから、常に独立を脅かされる状態にあった。
バルト三国同様に第一次世界大戦中に独立を果たしたフィンランドは、要求を拒否したことでソ連の侵攻を受けることになった。バルト三国にとって、イギリスやフランスをはじめとする国際社会がフィンランドを助けるかどうかは重要だった。結局、フィンランドが助けられることはなかった。
バルト三国併合
1940年6月、バルト三国はソ連に編入された。ドイツとソ連は密かに話し合い、ドイツがポーランドを、ソ連がバルト三国を手に入れることを約束していた。イギリスの支援に期待もできず、バルト三国はあっさりと占領されてしまった。ソ連に近いラトビアとエストニアでは大統領が連行され、リトアニアの大統領は脱出に成功してアメリカに亡命した。
バルト三国はソ連の構成国に組み入れられ、共産主義国となった。企業は国有化され、土地は農民に分配された。聖職者は逮捕され、数万人がシベリア送りになった。
ドイツに占領される
やがてドイツ軍が侵攻してきた。バルト三国にとってドイツ軍は「解放軍」だった。市民は解放軍を歓迎し、ソ連を倒すためにドイツ軍に加わった。ドイツに近いリトアニアでは、ソ連と戦うために3万人の志願兵が集まった。
しかしドイツからも独立が認められることはなく、独立を目指していた指導者は逮捕され、ユダヤ人は強制収容所へ送られた。一部のユダヤ人はソ連や日本を経由してアメリカへ逃れた。特にリトアニア日本領事館の杉原千畝(すぎはらちうね)が大量のビザを発行して多くのユダヤ人を救った話が有名。
ソ連に再占領される
1944年、バルト三国は再びソ連に占領された。ドイツ軍に参加していたリトアニア兵は中立国のスウェーデンへと逃げ込んだが、スウェーデンは圧力に屈し、彼らをソ連に引き渡してしまった。バルト三国の市民は、今度はソ連軍に加わりドイツと戦うことになった。
こうして両国の間で戦場となったバルト三国は、第二次世界大戦中に人口の5分の1を失うことになった。戦後はソ連の構成国に入り、長い支配を受けることになる。バルト三国がソ連から独立できたのは、ソ連が崩壊した1991年のことだった。